発見130周年を迎えた平城貝塚について紹介します
2022年03月31日更新
はじめに
平城貝塚は、明治24年に発見され、令和3年8月に発見130周年を迎えました。
この明治24年という年は、明治10年に日本で最初に発見された東京都大森貝塚の発見からわずか14年後であり、平城貝塚は大森貝塚と同じくかなり古い時代に発見された遺跡です。
貝塚とは(太平洋側にある縄文貝塚の西日本代表・平城貝塚)
平城貝塚は、平城縄文人が食べた貝の殻などが積み重なった生活の痕跡です。貝殻に含まれるカルシウムのおかげで、他の遺跡では見つけることが難しい動物の骨や、埋葬された縄文人の骨などが良好に残されています。
日本全国の縄文遺跡は94,729遺跡あるのですが、その内で縄文貝塚は2,443遺跡です。西日本の縄文貝塚は419で、瀬戸内海中部と有明海沿岸に集中しています。太平洋側のものは10余りで、東日本とは対照的で極めて少なく、それらの中に平城貝塚と肩を並べるものは一つもありません。
このことから、平城貝塚は太平洋側にある縄文貝塚の西日本代表であり、そういう遺跡が愛南町にはあります。
山海からの恵み(平城貝塚の際立った特色その1)
【平城貝塚で発見された石鏃(矢じり)】
平城貝塚では貝の他、周囲の山野から獲ってきた鹿や猪等の骨が出土しています。また、それらを加工した道具も見つかっており、貝や動物そして道具の「再生」を願った可能性があります。
また、魚の骨も見つかっているのですが、タイなどは御荘湾の沿岸で獲られたものと思われます。
これに対して、外洋を主な生息場所とするカツオやマグロの仲間の骨の他、イルカやクジラなどの海棲哺乳類の骨が出土していますので、平城縄文人が僧都川を渡り、日土峠を越えて久良湾から太平洋へ漕ぎ出していた可能性は高いと考えられます。
平城縄文人(平城貝塚の際立った特色その2)
【貝塚から発見された縄文人の人骨】
平城貝塚では、現在のところ14体の縄文人が埋葬されていたことが分かっています。最も研究が進んでいるのは10代半ばの女性で、骨を分析した結果、確実に縄文時代に生きた人類であり、海産物を多く食べていたこと、母親の系統が南の方にあることが分かってきています。
平城貝塚からは多様な装飾品が出土しており、彼女が無事に成人していれば、腕には貝の腕輪が光っていたのかもしれません。
平城式土器(平城貝塚の際立った特色その3)
平城貝塚から出土した土器は「平城式土器」と呼ばれており、平城貝塚独特の土器として考古学者の間で知られています。
平城1式土器は、模様を縄文がある部分と無い部分に分けており、平城貝塚よりも古い時期からの伝統を守っています。
平城2式土器は、口縁部に際立つ文様を施しており、この意匠は平城縄文人が生み出したものであると考えられます。
平城1式土器
平城2式土器
平城貝塚の中の5つの貝塚(平城貝塚の際立った特色その4)
これまで、平城貝塚は一つの大きな貝塚である、 というイメージで理解されてきました。
しかし実際は、少なくとも5つの貝塚の集合体であって、牡蠣と蛤そして小さな巻貝がそれぞれ異なる地点で積み重なっていたことが分かりました。
1.牡蠣塚は僧都川寄りのところで発見されており、牡蠣の貝殻だけが積み重なっていたことが分かっています。
2.蛤塚は牡蠣塚の北にあり、蛤の貝殻だけが積み重なっていたことが分かっています。
3.小さな巻貝の塚は蛤塚の北にあり、干潟に住むフトヘナタリの貝殻だけが積み重なっていたことが分かっています。
4.祀りの貝塚は、平城縄文人がわざわざ円形に地面を掘りくぼめてイノシシの下顎の骨などを置き、その上を貝殻で覆ったものです。
5.平城貝塚外縁の貝塚から見つかった土器は、1から4の貝塚から出土したものより新しい特徴を示していることから、 それらよりも新しい時期にも貝塚が形成されています。
令和3年に「平城貝塚発見130周年」を迎えたことを記念してパンフレットを作成しました。興味のある方は生涯学習課にお問い合わせください。
終わりに
平城貝塚では年代測定の結果、少なくとも240年にわたって営まれたことが分かっています。
また、約12,000年前の土器が出土しているだけでなく、生息域が異なる貝で成り立っているそれぞれの貝塚が確認できています。
まだまだ眠っている情報が多いことが予想できるため、未来にわたって大事に遺跡を保護していきます。
愛南町城辺甲2420番地
電話番号:0895-73-1112
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